第9話

 次の日も将則は、絹田駅で二人分の座席を確保し、発車のときを迎えた。

 あの子はまた隣に座ってくれるだろうか、という不安と、ひょっとしたらあの子と仲良くなれるかもしれない、という希望的妄想に支配され、右足の貧乏ゆすりが止まらなかった。

 絹田駅を出て約五分が経過した。

 電車は減速し、馬頭敷駅のホームに入る。

 隣の座席に置いてあるエナメルバッグを、昨日よりも早めにどけた。

 万力(まんりき)で締めつけられるような胸の苦しさを感じながら、将則はおそるおそるホームを見た。

 今日もあの子はいつもの場所に並んでいた。

 そして、ドアが開くと、あの子はまっすぐに進み、まるで約束していたかのように将則の隣に座った。

――今日も来てくれた……。

 将則の胸を締めつけていた万力は一瞬にして緩む。そして、じんわりと腹の底が温かくなり、全身の力がすべて抜けた。力が抜けたことによって、初めて力(りき)んでいたことに気づいた。右足の貧乏ゆすりも止まっている。

 あの子が隣に座って一分ほどが過ぎた。

 なんともいえない幸せな時間だった。

 さらにもう一分ほどが経過した。座席と接している自分のふとももの裏が汗でびしょ濡れになっていることに気づき、将則は、なんとなく目のやり場に困る。ふと前を見た。厚化粧OLと目が合った。厚化粧OLは微笑んでいるように見えた。 

 あの子が今日も隣に座ってくれたら何かを話しかけようと思っていたが、肝心の言葉が思い浮かばない。一晩中悩んでも考えつかなかったのだ。この場で急に適当な言葉が湧いてくるはずもない。

 間(ま)が持たなくなった将則がエナメルバッグからスマホを取り出すと、その子もそれに倣(なら)うように自分のカバンからスマホを取り出した。昨日と同じパターンだ。

 深井セントラルパーク駅で、チャパバアに続いて新聞オヤジがこの車両に乗り込んできたときは、一瞬わけが分からなくなった。が、あのオヤジの生態と習性をすぐに理解するのは不可能だと割り切ることにした。新聞オヤジの乗車法則を読み解くのは、また今度にしよう。昆虫観察とはレベルが違う。今はこの子との密着を楽しむべきだ……将則はそう考えた。

 だが結局、今日も昨日と同じくスマホを眺めたまま、何をするでもなく豊川台駅に到着してしまった。

 その子にエナメルバッグがぶつかったりしないよう細心の注意を払いながら、将則はそっと立ち上がり、電車を降りた。

 新聞オヤジは乗ったままだった。



 その次の日も、あの子は隣に座ってくれた。

 土日を挟んだ月曜日も、そして今日――火曜日も、あの子は将則の隣に座った。

 だが、話しかけることができない。すぐ隣に、文字どおり袖の触れ合う距離にいるのに。

 今週に入ってから、なぜか将則は厚化粧OLと目の合う回数が増えた。

 もう大丈夫だから、そろそろ話しかけなさいよ! 厚化粧OLにそう言われているような気がした。

 だが、知らない異性に話しかけることを想像すると、それだけで呼吸が止まりそうになる。言うまでもなく、将則は純度百パーセントの童貞だ。帰りの電車で偶然あの子に会って、朝も同じ電車ですよね! と声をかけるのであれば不自然ではないと思い、毎日そのチャンスを待ってはいるものの、それはただ思っているだけであり、実際にはそんなことを実行できる男ではなかった。

 プテラノドンを意識していても、心はヒヨコである。いや、このままではヒヨコにすらなれない。卵だ。無精卵だ。

 しかし、いつまでもそんな状態では〝雄(おす)〟として失格だ。

 計画を実行してから今日でちょうど一週間になる。そろそろ、〝いつも隣に座っている〟という事実を、朝の電車で話かけるきっかけとして使ってもおかしくはないだろう。

 チャパバアだって、あれから毎日、老紳士と親しげに話しているのだ。

――よし、明日こそいくぜい!

 将則は決心した。

 そして、厚化粧OLの顔を見て、そっと、しかし力強く頷いた。厚化粧OLは将則の頷きには気づいていないようだったが、メガネくんにはチラ見されたような気がする。



 翌日――決戦の水曜日。

 朝からロケットスタート。

 とにかく努めてアゲアゲにした。

 今朝の将則はスターを取ったマリオ状態だ。

 起き抜けに、腹筋・背筋・スクワットを各百回×五セット。

 シャワーだってお湯なんか使わない。男は黙って真水。気分は水垢離(みずごり)。

 目だけはつぶらでかわいい、なんてことは誰にも言わせない。

「今日は、カラダを張って、死ぬ気で、頭からガツガツいきますっ!」

 将則は冷水シャワーのあと、全裸のまま洗面所の鏡の前に立ち、ラグビーの試合前に監督からジャージを手渡されたときにいつも口にする言葉を力強く声に出して言った。

 洗面所から出ると、母親と妹から、疑問と呆(あき)れがフィフティ・フィフティに入り混じった視線を向けられたが、動揺することはない。今朝の将則は、秋田の阿仁マタギも避けて通る狩人だ。そのメンタルの安定感は、あの新聞オヤジをも凌駕(りょうが)している。

 朝食は三十秒で平らげた。

 肩にエナメルバッグをかけて玄関を出ると、目の前にひらひらと舞っていたモンシロチョウをすぱっと素手で捕まえた。しかも、指と手のひらの間に空間を作り、蝶を傷つけないように、だ。そして、手を開く。モンシロチョウが逃げる。また捕まえる……カメレオンの舌の素早さで、そのキャッチ・アンド・リリースを五セット繰り返した。亀田三兄弟顔負けの高速ジャブが宙を舞う。うむ、絶好調。今朝の将則なら、素早いハエでも簡単にキャッチできよう。

 最寄り駅へ向かう坂道でも、将則は視界に入るすべての自転車を猛然と追い抜いた。六台。新記録だ。このたたみかけるような力強いエレファントぺダリングを競輪協会の会長に目撃されたら、三顧の礼を持ってスカウトされるだろう。今朝のバイクスピードは、全盛期の中野浩一をも凌駕していた。若くて頭髪があっても、アデランスのCM出演依頼がくるかもしれない。

 前を走っていた自転車を追い抜く際、将則は英検五級の実力を活(い)かして「グッモーニン」と、ネイティブスピーカー顔負けの流暢なアクセントで朝の挨拶を振りまいてきた。しかも白目で。挨拶を受けた微笑マダムや純朴小学生らは、自転車をこぎながら唖然としていた。

 駅の人混みも、クリスティアーノ・ロナウドのドリブルを思わせるステップで華麗に躱(かわ)しながら、小走りに駆け抜ける。今朝の将則は誰にも止められない。思わず「ウィ~~~!」と、顔に似合わぬ甲高い奇声を上げた。

――こんだけテンションを上げとけば、あの子に話しかけられるはずだ!

 最寄り駅からJR線に乗り、絹田駅に着いた。

 電車を降りて小走りに階段を駆け上り、改札口を出る。引き続き軽快なステップを踏みつつ、私鉄の改札口を通過した。

 階段を下りて、ホームのほぼ中央に移動し、いつもの電車の、いつもの車両の、いつもの乗車口前に立つ。ドアが開く直前に、ラグビーグラウンドに入るときと同じようにピシっと姿勢を正し、深く一礼した。

 決意のこもった将則の背中を見て、すぐ後ろのメガネくんは息を呑んだ。

 その気配を察知した将則は、勢いよく振り返って、全力のティラノサウルス変顔をメガネくんに浴びせた。

 メガネくんは身の危険を感じたのか、ぶるっと震えて大きく仰(の)け反(ぞ)り、反射的に顔の前に両手を出して防御姿勢をとった。


つづく(第10話へ)