第8話

 翌日。

 絹田駅でいつもの電車に乗り込んだ将則は、ドアから入ってすぐ左の定位置にエナメルバッグを置き、自分はその隣に座った――一人で二人分の座席をキープした。

 いつもなら手すりの横棒にかける右肘を、今日は自分のエナメルバッグの上に乗せている。かなり非常識だが、あの計画を実行するためには、これは必須の行為なのだ。

 まずは、計画の第一段階成功。

 乗車してくる人間全員にガンを飛ばして威嚇し、エナメルバッグで確保した場所には誰も座らせないようにした。今日の将則は、卵や雛を守る親鳥のように用心深く獰猛(どうもう)だ。顔つきも、翼のある恐竜――プテラノドンを意識している。

 いつもとは若干違う光景だった。

 今日は正面に厚化粧OLがいる。服装はいつもどおりのカジュアルファッション。

 その隣のメガネくんは、単語帳を取り出してそこに目線を落としたあと、二度ほど上目づかいに将則のほうを見てきた。もちろん、メガネくんはその目線を将則の目の高さまでは上げてこない。決して目は合わせぬよう、将則の胸のあたりまで見たら、すぐに単語帳へ視線を戻す。しかし、二度もその目線移動を繰り返した。おそらく草食動物特有の嗅覚で、いつもと違う空気を感じ取っているのだろう。

 座席がすべて埋まった。

 乗車してきた老紳士にチラッと見られたときだけは、少しだけ良心の呵責(かしゃく)を感じ、思わず目を逸らしてしまったが、将則は二人分の座席を確保したまま、発車のときを迎えた。

 よし、計画の第二段階成功。

 電車がゆっくりと動き出す。

 今日も隣は、半袖ポロシャツの腕毛チクチクおじさんだった。ひょっとしたら、このおじさんは、自分の硬い腕毛を若い男子に擦(こす)りつけることに快感を覚える変態なのかもしれない。柔道をやったら、すぐに寝技に持ち込んでくるタイプだろう。

 チクチクがやや不快だが、香水リーマンが近くに見当たらないので、空気は悪くなかった。

 電車は順調に加速している。

 周囲から非難を含んだ視線を感じないでもなかったが、将則の関心はそこではない。そんなことを気にしている場合ではないのだ。

 馬頭敷駅へ近づくにつれ、徐々に心拍数が上がってきた。

 落ち着いて精神統一を図るため、新たなルーティン――胸の前で両手をかさねて印を結ぶ〝ゴリラ丸ポーズ〟をキメた。……少しだけ鼓動が平静を取り戻したような気がする。

 電車が減速を始めた。

――あの子は、今日もあのドアから乗ってくるかなぁ……。
 
 電車が馬頭敷駅のホームに入ると、鼓動はどうしようもなく早く強くなり、耳も熱くなってきた。もはやチクチクおじさんのチクチクすら感じない。

 将則は目線を右斜め前――ちょうど老紳士の前にある窓へ向け、駅のホームに並んでいる人の列を見た。

――いたっ!

 停車する直前に、あの子の存在を確認した。

 今日も昨日と同じで、乗車口前の先頭に並んでいる。

 存在を確認した直後、あの子は一旦、将則の死角に入ったが、すぐにドアが開く。

 隣の座席に置いてあったエナメルバッグを自分の足元に移した――あの子のためにとっておいた座席を空けた。

 車内に入り込んできたその子は、将則の隣が空いていることに気づき、そこへまっすぐに進み、そして座った。

 これで計画の第三段階成功だ。

――くうぅぅ~~! 来た、きた、キタぁ~~~!!

 その子が座るとき、将則の膝とその子のふとももが一瞬だけ接触した。想像を超えた柔らかさだった。

――これが女ってものなのか……。

 ふとももはすぐに離れてしまったが、ワイシャツ越しに触れ合う腕がその子の体温を伝えてくる。その子の隠しようのない瑞々(みずみず)しさが、将則の胸を苦しくさせ、より一層鼓動をバーストさせた。 

 こんなに近くにいてしまっていいのだろうか。なんという距離感。そして、なんていい香りなんだ……将則はあまりの幸せに、しばらくの間、動けなくなってしまった。

 その子の顔を見たかったが、もしもこの距離で目が合ってしまったら、将則は心臓発作で急死してしまうかもしれない。

 顔の向きは固定したまま目線だけを動かし、かろうじて見ることができるのは、その子の青いスカートから露出している白い膝と、控えめながらもやさしく膨らんでいるワイシャツの胸元くらいだった。

 バクバクと脈打つ自分の心臓の音が、その子に伝わりはしないかと不安で、お得意の人間観察が全くできなかった。……勃起(ぼっき)しているのは言うまでもない。

――幸せすぎる。だけど、このあと、どうすりゃいいんだ……。

 将則は、普段は見ないスマホをエナメルバッグから取り出し、意味もなくいじった。

 今日は計画の第三段階までしか練っていなかったのだ。まさかこんなに上手くいくとは思っていなかった。

 スマホをいじり始めてしばらくすると、その子も膝の上に置いてあったカバンからスマホを取り出し、なにやら操作を始めた。

 唐突に嫉妬(しっと)のような感情が湧き起こり、なぜか不安になった。その子と将則はまだ、どんな関係でもないのに――。



 電車は容赦なく深井セントラルパーク駅を経由し、将則を豊川台駅まで運ぼうとしている。

「毎度ぉ~、ご乗車ぁ~、ありがとうございまぁす。次はぁ~、豊川台ぃ~、豊川台ぃにぃ停まりぃまぁす。どなたさまもぉ、お忘れ物ぉなさいませんよぉ、お気をつけぇくだ~さい。お出口はぁ、左側ぁでぇす。豊川台ぃにぃ停まりぃまぁす」

 いつもと同じ妖(あや)しいイントネーションの車内アナウンスが流れる。

 名残惜しくも、なぜかホッとした将則は、その子にぶつからないよう静かに立ち上がって、ドアへ向かった。

 そのとき、チラッとその子の顔を見てみた。

 目が合うことを密かに期待したが、その子はスマホから目を離さない。少しだけ不安そうな表情をしているように見えた。

 降りる直前に、今日はチャパバアが老紳士の隣にポジショニングしていることに気づいた。老紳士に色目を使っているように見える。熟年カップル誕生の予感。いや、それはないか……。チャパバアと老紳士を見て、少しだけいつものペースに戻れた気がした。

 電車は停車し、ドアが開き、将則は降りた。

 降りる将則と入れ違いに乗ってくる人の中に、見たことのある顔がひとつあった。

――ん?

 状況を理解するのに少しだけ時間がかかった。

――えっ! なんで新聞オヤジが⁉

 新聞オヤジは、二日前は絹田駅から、昨日は馬頭敷駅から、そして今日は豊川台駅から乗ってきた。……乗車駅と降車駅を毎日変えているのだろうか。

――あのオヤジ、何者だよ……。

 将則は、甘酸っぱいイチゴのババロアのような味になっていた心に、ツブツブたっぷりの強烈なマスタードをべっとりと擦(なす)りつけられたような気分になった。


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