第7話

 電車が深井セントラルパーク駅に到着した。

 降りる乗客はほとんどいない。

 乗ってくる人は多い。

 いつもと同じだ。

 車内の人口密度はかなり上がったが、新聞オヤジは相変わらず微動だにせず、新聞を全開に広げている。



「こんなに混んでるんですよ! あなた、なに考えてるんですか」

 深井セントラルパーク駅を出発してすぐに、右前方から中年女性の尖(とが)った声が聞こえてきた。将則は顔を上げる。

――出たっ! チャパバアだっ!

 乗車してきたチャパバアが、新聞オヤジの新聞おっぴろげっぷりにブチ切れているようだ。

――これは見モノだ。

 厚化粧OL対新聞オヤジは観戦できなかったが、チャパバア対新聞オヤジも悪いカードではない。

「……ん? ああ」

 新聞オヤジは三秒ほどのためを作ってから、のんびりと返事をして、カタツムリの動きで新聞を半分に折りたたむ。折りたたむときにオヤジの顔が将則にもチラッと見えた。縁(ふち)の黄色いメガネをかけ、グレーのニット帽をかぶっていた。やはり昨日の新聞オヤジで間違いない。

 チャパバアの怒りのボルテージが上がっていくのが手に取るように分かる。すでに怒り能面モードに突入している。

「他人への迷惑を考えてくださいっ」

 収まりのつかないチャパバアが唾(つば)を飛ばしながら吠えた。薙刀(なぎなた)でも持ってきそうな勢いだ。……昨日、変顔を食らわせなかったのは正解だった、と将則は胸を撫でおろす。

「電車はみんなのものなんですよっ! あなただけのものじゃないのっ! もっと俊敏(しゅんびん)に動きなさいっ」

 チャパバアは、テンポよく言葉の高速ジャブを繰り出した。

「……ん? ああ」

 新聞オヤジは柳(やなぎ)のように受け流す。うむ、さすが、見事なディフェンス。

 電車の車輪が線路を駆け抜ける軽快な音とエアコンの送風音、そして誰かのイヤホンから漏れる小さな音楽以外は何も聞こえない静けさに車内は包まれた。皆、世紀の対決を固唾を飲んで観戦している。

「あなたねえ! 他人の迷惑を考えてるんですか? ねえっ⁉」

 周囲の乗客から〝おまえの声のほうが迷惑だよ〟という視線が集まる。

「……ん? ああ」

 新聞オヤジは安定の柳っぷり。

「わたしは、あなたに他人の迷惑を考えているのかどうかを訊いてるんですっ! この車両の他の乗客の方に謝りなさいっ! これは人権問題ですよっ」

 チャパバアのたたみかけは続く。なんだかもう無茶苦茶になってきた。

「ふあぁぁぁ~」

 新聞オヤジは、あくびをかました。なんたるタイミング、なんたる余裕、なんたる平常心。……新聞オヤジのメンタルの底が全く見えない。

「まあまあ、おふたかた――」

 新聞オヤジとチャパバアの間に、モスグリーンのジャケットを着た男が割って入った。あの老紳士だった。

「こちらの方も新聞を折りたたんだことですし……」

 老紳士は「お二方(ふたかた)」とは言ったものの、チャパバアにだけ話しかけている。

「それに、ほら、この方に、これ以上言っても……ね」

 小さな声でそう言って、老紳士はチャパバアに軽くウィンクした。

 チャパバアは我(われ)に返ったのか、少しだけ周囲を見まわしてから、わざとらしく大きな溜(た)め息(いき)つき、

「そうね、こんな人にこれ以上言っても無駄ね」

 と棘(とげ)のある口調で捨て台詞(ぜりふ)を吐き、欧米風に両肩をくいっと上げて、老紳士に作り笑顔を見せた。能面から福笑いに戻った。

――さすが老紳士! まさにこの車両の良心!

 将則は改めて老紳士の問題解決力に驚嘆した。

「もう最近、変な人が多くて困っちゃいますよね」

 まだ完全には怒りのクールダウンが完了していないチャパバアが、老紳士に愚痴(ぐち)り始める。

 老紳士は苦笑いを浮かべて、「まあ、いろんな方がいらっしゃいますので……」と言いながら、いつもの定位置――将則の右斜め前に戻りつつ、そのままチャパバアも連れていった。

 やや距離は離れたものの、チャパバアと老紳士の会話は将則にも聞こえてくる。

「うちの近所にもね、タバコの煙と騒音で迷惑を振りまく人がいて困ってるの――」

 チャパバアの愚痴は止まらない。近所に外国人が多く住むアパートがあって、そこの住人が非常識で困っている、というようなことをしゃべり続けた。

「……なるほど、受忍(じゅにん)限度(げんど)の証明なんかは、けっこう面倒くさいですからな」

 老紳士はチャパバアの愚痴を柔らかく遮(さえぎ)り、内ポケットから小さな黒い財布のようなものを取り出した。

「実はわたくし、この近くで法律事務所をやっておるので、相談に乗れることがあるかもしれません」

 黒い財布のようなものは名刺入れで、老紳士はそこから取り出した名刺を両手でチャパバアに差し出した。チャパバアも、かしこまって両手で受け取る。

――なるほど、老紳士は弁護士だったのか。

 将則は、いつも老紳士の胸元に付いている小さな丸いバッジの意味を理解した。きっと話の分かる弁護士に違いない。



 老紳士がチャパバアをなだめている最中も、新聞オヤジは、新聞から視線を動かさなかった。

 いったい何を考えているのだろうか。本当に文字を読んでいるのだろうか。〝鋼のメンタル〟に勝るとも劣らないこの〝柳のメンタル〟は、いったいどのように醸成されたのだろう……将則の新聞オヤジに対する関心は急速に高まった。

 新聞オヤジは、両手で新聞を持ち、つり革には掴まっていないのに、ほとんど上体がブレない。これは下半身が安定している証拠だ。毎日数百回レベルのスクワットでもしているのだろうか。あの不動のメンタルは、肉体的にも安定した土台があるからこそなのかもしれない。



「毎度ぉ~、ご乗車ぁ~、ありがとうございまぁす。次はぁ~、豊川台ぃ~、豊川台ぃにぃ停まりぃまぁす。どなたさまもぉ、お忘れ物ぉなさいませんよぉ、お気をつけぇくだ~さい。お出口はぁ、左側ぁでぇす。豊川台ぃにぃ停まりぃまぁす」

 停車を告げる車内放送が流れる。

 新聞オヤジが新聞を折りたたんだ。降車しそうな雰囲気だ。

――ん? 昨日、新聞オヤジは豊川台では降りなかったはずだけどなぁ。

 チャパバアとのやり取りで気まずい思いをしたから、一旦降りるのかもしれない……将則はそう考え、新聞オヤジの人間らしい一面を覗けたような気がした。そして、なぜか少しだけ嬉しくなった。拒食中のイグアナが数週間ぶりにエサを食べる瞬間を目撃できたときのような、そんな嬉しさだった。

 将則が新聞オヤジの顔を目の前でじっくりと見るのは、これが初めてだった。もう六十を越えていると思っていたが、近くでよく見ると意外と若そうだ。肌ツヤもいいし、四十代に見えなくもない。若さの秘訣はきっと、ストレスを溜めずに受け流すことなのだろう。いやはや、勉強になる。

――よし、明日こそ、あの計画を実行しよう。

 気持ちを切り替え、そして、将則はある決意を胸に秘めて、心と呼吸を整えるべく深呼吸をした。

「すうぅ~~」

「はあぁ~~」

 将則が大きく息を吸い込むのと、新聞オヤジが溜(た)め息(いき)をつくのは同時だった。

――ふぐぅ!!

 新聞オヤジの溜め息をほぼすべて鼻と口の両方から吸い込んでしまった。

――く、くせえ! んで、気持ち悪りぃ……。

 鼻から吸えばクサい。口から吸えばニオイは感じないものの、毒素をダイレクトに吸い込んでいるようで気持ち悪い。もちろん、呼吸を止めるというオプションもある。しかし、今回、将則はそういった判断や選択を一切することなく、無意識のうちに鼻と口の両方から新聞オヤジの溜め息をバキュームしてしまった。

 あまりにも気分が悪い。気持ち悪すぎる。……そこで、新聞オヤジの柳のメンタルパワーを吸収できた、とプラス思考で捉えることにした。そういえば、「世に出回ってる自己啓発本はすべて、プラス思考で生きようってことが書いてあるだけだ」と、クラス担任の中井――通称〈マッチョムース〉が言っていた。が、そう思っても、将則の気持ちは少しも晴れなかった。ゲップを吸わされるよりはマシだ、と自分に言い聞かせてもみたが、そんなことを考えてしまったことによって、余計に気分が悪くなった。

 ショックが大きすぎて、車内を移動する際、あの子の髪の香りを嗅ぐことさえ忘れていた。

 将則は、新聞オヤジと一緒に豊川台駅で降りた。

 改札口へ向かう階段を、新聞オヤジは二段とばしで力強く上った。やはり下半身が安定している。彼の趣味は登山なのかもしれない。

 新聞オヤジは改札口を出ると左へ――将則とは反対方向に行ってしまった。

 駅を出てからの将則は、タクラマカン砂漠で迷子になってしまった観光客のように、力なくトボトボと歩くことしかできなかった。

 駅前の商店街を抜けても、その歩調は変わらない。

「よお、ゴリ」

 激安の大型スーパーを通り過ぎたところで、自転車にまたがったラグビー部の同級生が話しかけてきた。

「おう、植竹……」

「なんか、しょっぱそうな顔してんな」

「…………」

「どしたの? ゴリ」

 植竹は基本的に、誰にでも気を遣ういいヤツだ。

「話すと長くなるし……いや、そんなに長くはならないけど、思い出したくないから訊かないでくれ」

「へっ?」

「朝の通学電車は戦場なんだよ――」

 鉄道オタクの植竹は、興味深そうな反応を見せる。

「なにそれ」

「……溜め息を吸った」

「はっ?」


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