第6話

 馬頭敷駅で降りる乗客はいなかった。

 乗車口の前に並んでいた人たちが乗ってくる。

 一番前に並んでいたあの子は、最初に入ってきた。

 透けるように肌の色が白く、少しだけ目が細い。細いがやさしい感じのする目だった。あまり自己主張の強いタイプには見えない。どちらかというと地味系グループの一員だろう。おそらくノーメイクだが、薄いピンク色の唇が妙に目立つ。身長は意外と高めで、一六五センチ以上あるかもしれない……。

 その子が電車に乗り込んで、空席を探すように視線を彷徨(さまよ)わせたあと、昨日と同じくメガネくんの前に移動するまでのごく短い時間に、将則はそんなこと思った。

 その子の顔を見たとき、急に自分の鼓動が早くなり、呼吸が浅くなったような気がした。

 だが、顔を見ることができたのは、そのときだけだった。すぐに後ろ姿しか見えなくなる。スカートから覗く白いふとももは少しだけむっちりしていて、痩せ型とはいえそうにない。もちろん太ってはいないが、メガネくんよりは確実に肉づきがいい。昨日は白だった背中のブラジャーの線が、今日は薄い水色だった。

――いい眺めだ。

 動悸(どうき)は収まらないものの、自分に突然沸き起こった甘く切ない感情を、将則はあの計画をイメージしながら心地よく味わった。

 その子のシャンプーの香りがする髪のニオイを微(かす)かにでもいいから感じようと、嗅覚(きゅうかく)に神経を集中した。……が、鼻が感知したのは、厚化粧OLの隣にいる香水リーマンの悪臭だった。春の高原の爽やかな朝の空気を大きく吸い込んでいたら、突然カメムシが両方の鼻の穴に闖入(ちんにゅう)してきた気分だった。

――くそったれ!

 そう思ったところへ、さらに追い打ちをかけるように、目の前に新聞を広げたおっさんが立ちはだかった――あの子への視界は完全に閉ざされた。

――ちくしょう!

 将則は目の前のおっさんを睨みつけたが、当然、広げられた新聞があるので、顔も見えないし、目も合わない。

 おっさんの足元を見た。ユーズド感が滲み出ているグレーのスラックスに茶色のボロい革靴……以前に一度見たことがあるような気がした。いつだったろう……。

 毎日電車に乗っていれば、様々な人間の色々な服装を目にする。将則はそれをいちいち記憶しているわけではない。だが、「以前に見たことがある」と思うということは、服装以外にもそれなりに印象深い人物だった可能性が高い。誰だろう……。

 しばらく考えても思い出せなかったので、別の観察対象を探すことにした。しかし、目の前には大きく広げられた新聞、左には腕毛チクチクおじさん、そして右には性別判定不能な大きい背中、というおよそヒューマンウォッチングには適さない状況だった。

 あの子へ視界を遮(さえぎ)られ、ただでさえイラついていた将則の不快指数は急上昇した。とにかく目の前の新聞が邪魔だ――。

 そのとき、ふと将則は、あることを思いついた。

――よし、やってみよう!

 深呼吸して心を整える。

 そして、目の前の新聞を、右手の人差指(ひとさしゆび)でそっとつついてみた。

 反応はない。

 次はもう少し強めに、チョンとつつく。

 これにも反応はない。

――この鈍感さ……もしかして、昨日、厚化粧OLとやりあった新聞オヤジか⁉

 隣に座っている腕毛チクチクおじさんが怪訝(けげん)そうに将則を見てきたが、その視線には気づかないフリをした。

 絹田駅で車内を見まわしたとき、新聞オヤジはいなかったはずだ。別の車両から移動してきたのか。それとも馬頭敷駅で乗ってきた? でも、同じ人間が日替わりで別の駅から、しかも同じ車両に乗ってくるなんてことがあるのだろうか……将則は、そんなことを考えたが、まあ、どうでもいいことだ。

 中指の爪を親指に引っかけ、将則はデコピンのスタンバイ体制を整えた。軽く、なるべく軽く新聞をデコピンしてみることにした。デコピンというか新聞ピンだが、これは自分自身への挑戦でもある。明日の計画に向けてのウォーミングアップにもなるだろう。

 親指で抑えた中指に少し力を込め、軽く弾(はじ)く――。

パァ~ン!

――やべっ! 想定外に勢いがついちまった!

 弾いた中指は威勢よく目の前の新聞を打ちつけ、乾いたスマッシュ音を車内に響き渡らせた。複数の視線が集まってくるのを感じた。隣の腕毛チクチクおじさんの動揺が、チクリと伝わってくる。

 しかし、目の前のおっさんに反応はない。これで分かった。この優れた鈍感力……間違いない。あの新聞オヤジだ。


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