第5話

 将則が電車内の〝人間観察〟にハマり出したのは、一年生の秋だった。

 その頃は、ラグビーをするため、というよりも、先輩たちの顔色を窺(うかが)うためだけに高校へ通っているような毎日を延々と繰り返していた。休み時間のたびに先輩に呼び出されては、パシられたり、マッサージをさせられたり、一発芸をやらされたり、そして意味もなく殴られたり蹴られたり……。

 小学生の頃からずっと大好きだったラグビーも、何かひとつでもミスをやらかしたら練習後に先輩にボコられるかもしれない、という恐怖心に覆われてしまって好きではなくなっていた。とにかく部活に行くのが嫌(いや)で、授業が終わっても、掃除当番でもないのに教室掃除を手伝ったりして、なるべく部室へ行く時間を遅らせようとしたりもした。

 通学時に先輩と同じ電車に乗ってしまうだけで、「一年のくせに俺らと同じ電車に乗ってて生意気だ」などと言われ、何発も殴られたりすることもあった。だから一年生は皆、始発に乗って登校した。

 それでも、早い時間帯に先輩が乗車してくる可能性もゼロではない。もしも通学中の電車内でスマホのゲームに夢中になって、同じ車両に乗っている先輩の存在を見過ごしでもしたら大変だ。挨拶をせずに先輩を無視したということで、一年生全員が連帯責任で集合させられ、さんざん走らされたあとに、冗談抜きでボコボコにされることになる。

 だからラグビー部の一年生は、電車内でスマホのゲームをやるのが厳禁だった。

 同じ理由で、電車内でスマホを使ったSNSなんかもやることはできない。先輩と同じ電車に乗らぬよう、万が一同じ電車に乗っていても絶対に同じ車両には居合わせないようアンテナを張っておく必要があった。そして、運悪く鉢合わせてしまうことにも備えて、すぐに立ち上がって挨拶できる姿勢で、いつも目線をキョロキョロさせていた。とにかく先輩の機嫌を損ねないように。

――毎日全然楽しくない。ツラいことばっかしだ。
――俺はなんのためにラグビーやってんだっけな。
――なんでこんな進路を選択しちゃったんだろ……。

 そんなことばかりを考えていた時期に、暗い顔の太ったサラリーマン風のお兄さんが、電車内でふと将則の目に入った。

 気の毒なほどにスーツの似合わない二十代前半と思しきその太(ふと)っちょ兄さんは、この世の終わりのような表情をしていた。いつから拭(ふ)いていないのだろうか、と心配になるほどメガネのレンズが汚れていて、背後から怪しげなお経が聞こえてきそうな、足元からはキノコが生えてきそうなオーラを発していた。

――俺もこんな顔してんのかな……。

 将則は自嘲気味(じちょうぎみ)にそう思い、なぜこの太っちょ兄さんはこんなにも暗い顔をしているのだろう、と想像してみた。

 彼女にフラれた?

……いや、それはない。そもそも彼女なんていないだろう。二次元で満足してるはずだ。

 体重が減らない?

……いや、それもない。そもそもダイエットなんてしてないだろう。昨日もポテチを三袋、カスタードプリンを五個は平らげてるはずだ。

 ゲームが上手くいかない?

……いや、太っちょ兄さんはゲームは得意だろう。むしろその世界では〈神〉などと呼ばれている可能性すらある。

 仕事を辞めたい?
……う~ん、それならあるかもしれないけど、このタイプなら、辞めたいだけなら、とっくに辞めてるだろう。

 ってことは、仕事を辞めたいのに辞められない?

……それだ! きっと陰険な上司に毎日ネチネチやられてるんだ。それなのに、こんな早い時間の電車に乗って、ネクタイ締めて出勤しなけりゃいけないんだ――俺と同じだ。

 中学時代の同級生などに「花園で優勝するからテレビ見とけよ」などと言ってしまった手前、将則はラグビー部と学校を辞めることができずにいた。世間体もあるし、辞めるなんてことは、親だって絶対に認めないだろう。

 一年生の部室では、常に誰かが「あ~、辞めてえ」というセリフをマントラ――祈りの言葉のようにつぶやいていた。必死に親を説得し、やっとのことで監督や部長を諦(あきら)めさせて、辞めることになった同級生がいると、残る一年生部員からは哀れみや同情ではなく、羨望(せんぼう)の眼差(まなざ)しが向けられた。羨(うらや)ましすぎる、俺も解放されたい、と。

 将則が本音を話せる唯一の先輩・福田に相談しても、「俺も一年のときは同じだったよ。でも、あと半年もすれば、きっと変わるから……ラグビーもまた楽しくなるって。それにゴリの能力なら、たぶん高校ジャパンとかになれるぞ。だから絶対辞めんなよ! 今のその不自由さがバネになる日がくるからさ」などと、キレイごとじみた励ましの言葉を浴びせられるだけだった。

――この太っちょ兄さんもきっと、いろんな事情があって、辞めたいのに辞められないんだ。

 何の根拠もない妄想なのに、将則は勝手にそう思い込み、正面の座席にいる太っちょ兄さんに親近感を持った。最初見たときは、汗臭そうでちょっとキモかったのに、曇ったメガネを拭いてあげ、ギュッと抱きしめてあげたくなってさえいた。

 その流れで、太っちょ兄さんの隣にいるグレーの安っぽいスーツを着た白髪のおっさんは何をやっている人なんだろう、と想像してみた。将則の想像・妄想・推理は、止まらなくなった。

 川魚のクチボソに似た顔つきのあのお姉さんは、どんな毎日を過ごしているのだろうか。あそこにいる寝起きのモモンガみたいな小柄なお爺(じい)さんは、今日これからどんな行動をするのだろう。あのお兄さんは、あのお姉さんに惚れている。あのJKの左の頬っぺたが腫れているのは、親知らずを抜いたからだろう。あのおじさんは、本当はおばさんに違いない。もし自分があのイケメン高校生だったら……そういうことを考えているときだけは、ラグビーのことも考えずに済んだし、とにかく楽しかった。

 もしかすると、太っちょ兄さんのような自分よりも不幸そうな人間を見つけて、ホッと安心したいだけだったのかもしれないが、とにかく将則は電車内での人間観察にハマった。同じ車両内に先輩がいないことを確認すると、毎朝それをするのが日課になった。幸(さいわ)いなことに、他人の観察に集中すると、車両内の人の出入りや動きにも敏感になるので、先輩を警戒するアンテナの感度が鈍ることもなかった。

 二年生になり、乗る電車の発車時刻はだいぶ遅くなったが、密かな楽しみは続いている。なぜこんなことが楽しいのか、なぜ好きになったのかは自分でもよく分からない。が、楽しいのだから仕方がない。

 単純な〝観察〟以外にも、目が合った相手に変顔を食らわせるなど、将則は楽しみ方を少しずつブラッシュアップさせていった。

 そして、今日もまた、通学電車をよりエキサイティングにできそうな新たなレベルアッププランを思いついたのだ。その計画を実行するのは、早くても明日からになるが、今日のうちに充分なイメージトレーニングをしておく必要がある。



 絹田駅を出発した電車は、最初の停車駅である馬頭敷駅に着いた。

 隣のおっさんの腕の毛のチクチクを感じながら、将則はメガネくんの横のドアを見た。ドアガラスの向こうには、乗車口前に並んでいる人の列がある。二列になっているようだ。

 ドアが開いた。

――いたっ!

 あの子は将則から見て左側の列の一番先頭にいた。


つづく(第6話へ)