第4話

 朝練が終わると、教室に入って授業を受けることになる。だが将則はその時間をほとんど寝て過ごす。机に突っ伏して涎(よだれ)を垂らし、ときにはワイルドな寝(ね)っ屁(ぺ)もかました。

 勉強が苦手で試験のたびに赤点を量産する将則は、クラス担任の中井――通称〈マッチョムース〉の指示で、常に教室の一番前の真ん中の座席に座らされていた。が、そんなことを気にするようなタマでもない。その猛烈な睡眠欲には教師たちもお手上げ状態だった。特に反抗的なわけではなく、意外と愛嬌のある生徒でもあったので、生暖かく黙認されていたともいえる。クラスメイトからは密かに〈惰眠(だみん)ゴリラ〉と呼ばれていた。

 六時限目――練習直前の時間になると、将則はもそもそと起きて授業中なのに入念なストレッチを始め、帰りの挨拶が終わると、掃除をサボって一目散に部室へ向かった。そして、ラグビーの練習だけは真剣にやる。

「男なら、なにかひとつくらい本気でやれるものを見つけて、そこで主役を張れ」

 というようなことを父親に言われたことがある。だからといって、勉強はしなくてもいい、ということではないはずだが、将則は自分に都合よく解釈していた。父親は「どんなときも明るく、楽しく」ということを口癖のように言う人間でもあったので、もしも授業中の将則のだらしない態度を見たら、ブチ切れてぶん殴ろうとして近づいてきて、でも、将則の豪快な寝(ね)っ屁(ぺ)を聞いたら笑いころげ、満足してそのまま教室から出ていってしまうかもしれない。高校の授業参観に父親が来ることはあり得ないが、将則はそんなことを思ったことがある。

 とにかく将則は、体を鍛えることと、ラグビーだけは一生懸命にやった。

 ハードな午後練を終えて帰宅すると、夕食を食べて風呂に入り、そしてまたすぐに寝る。帰宅前に駅前のマクドナルドに寄って、大好きなダブルチーズバーガーを三個食べた日でも、夕食の量は変わらない。

 よく食べ、よく鍛え、よく寝たのがよかったのか、高校入学時に七〇キロ前後だった将則の体重は、この一年数ヶ月でなんと九三キロにまで増えていた。身長は一八二センチから僅(わず)か一センチ伸びただけなのに。

 スタミナは少しだけ落ちたかもしれないが、スピードは落ちるどころかむしろ上がった。筋肉で体重を増やすと、そういうことになるらしい。正しい理論に基づいたウエイトトレーニングとはたいしたものである。



 その日、帰りの電車で少しだけ眠ってしまった。絹田駅でハッと目が覚めて、自分が居眠りをしていたことに気づいた。

 電車の中で寝ないために授業中居眠りをしているのに、なんたる不覚……将則は激しく後悔した。

 帰りの電車の中で、朝の電車で見たことがある人間を探すのも、将則の楽しみのひとつだった。ましてや今日は、朝にシャンプーのいい香りのするあの女子高生を見ていたので、帰りも偶然会えたら、朝も同じ電車でしたよね? なーんて声をかけることができたかもしれなかったのに……。



 翌日。

 晴天だ。一週間ほど前に梅雨入りしたのが噓のようである。

 将則は自宅から自転車で最寄り駅へ向かう際、途中にある坂道で前を走っていた別の自転車を四台も追い抜いてきた。

 追い抜くときに相手を横目でチラ見し、聞こえるか聞こえないかくらいの声で「みっみ」と囁(ささや)くのがポイントだ。これをやると朝から爽快な気分になれる。蒸し暑い朝に、制服を着たゴリラ風の青年に「みっみ」などと言われながら坂道で追い抜かれると、いったいどんな気分になるのだろうか。そんなことを考察するのも将則の密かな楽しみだった。

 今朝追い抜いた四人のうち二人――いつも穏やかな微笑みを浮かべているおばさんと、坊主頭の純朴そうな小学生のことは、ほぼ毎朝追い抜いている。いつも同じメニューでは申し訳ないので、明日からは横目で「みっみ」ではなく、白目で「しゅ~」にしてみてもいいかもしれない。
 


 最寄り駅からいつもと同じJR線に乗った。自転車こぎで火照(ほて)った体を、車内の冷房でクールダウンさせ、汗を乾かす。そして絹田駅で降りる。うん、いつもどおり。

 JR線の改札口を出て、少し歩いて私鉄の改札口を通り、将則はいつもの場所へ向かう。

 絹田駅から出る電車の、いつもの乗車口前に並び、ドアが開くと、入ってすぐ左の定位置にポジショニングした。大きく広げた両足の間にエナメルバッグを置き、手すりの横棒に右肘をかける。首を鳴らしたらルーティン完了。

 さあ、車内のヒューマンウォッチング開始だ。

 今日も正面はメガネくん。毎朝必ずそこにいる。抜群の安定感。いつも乗車前からピタリと将則の後ろに張りつき、ドアが開くとヤモリの素早さで真正面に座る。単語帳を取り出す動作も機械のように正確で隙がない。

――ひょっとしてメガネくんは、俺のことが好きなのかも。
――まさか、あの単語帳は小型カメラだったりして……。

 今日もミニコング・木薮将則の妄想は止まらない。

 メガネくんの隣、厚化粧OLはクリーム色のスーツ。いつもはカジュアルな服装が多いのに、今日はどうしたのだろう。珍しく手鏡を持たず、薄い水色のクリアファイルに入った資料のようなものをじっと見て、口元を微(かす)かに動かしている。朝一番に大切なプレゼンでもあるのだろうか。

 厚化粧OLの隣に座ったのは、昨日将則の隣にいた香水リーマン。オシャレなツーブロックに髪型が変わっている。だが、やはり今日も、これだけ離れていても香水のニオイが届いてくる。不愉快極まりない。もはや公害だ。ファブリーズかリセッシュの霧吹きスプレーを二十プッシュくらい食らわせてやりたい。メガネくんと厚化粧OLでジャンケンをして、負けたほうがそれをやるというのはどうだろう。

 そういえば、今日はニット帽の新聞オヤジがいない。できれば、プレゼン前の厚化粧OL対(バーサス)ハイパー鈍感窓際新聞オヤジの勝負を見たかった。

 まだ座席はけっこう空(あ)いているのに、今日も銀髪の老紳士は、いつもと同じく将則の右斜め前に立ち、つり革を握っている。紳士すぎる。意外とこういう地味な紳士が、大企業の社長だったりするのではないか。

 今日は乗客がやや少ない。もちろん、将則が座っているようなドア横の座席はすべて埋まっているが、それ以外の場所には、ちらほらと空席があった。

――このまま誰も隣に乗ってこなけりゃいいのに……。

 ふとそう思うと同時に、将則はある計画を思いついた。

――これは、イケるかもしれない!

 しかし、その計画を実行するにはいくつかの条件と〝運〟が必要だ。今日はひとまず、いつもどおりに観察しておくか……。

 結局、今日も絹田駅停車中に座席はすべて埋まり、将則の隣には初めて見るサラリーマン風のおっさんが座った。このおっさんに特段の特徴はない。あえてキーポイントを挙げるなら、少しだけもみあげが長いことと、腕の毛が硬いことくらいだ。おっさんのポロシャツから出ている右腕が、将則の左腕に触れるたびにチクチクした。

 ドアが閉まり、電車が動き出す。

 馬頭敷(めずしき)駅までの約五分が、将則にはいつもより長く感じられた。


つづく(第5話へ)