第3話

 電車は絹田(きぬた)駅を出発してから三番目の駅――豊川台(とよかわだい)駅に到着した。

 チャパバアとは目を合わせないようにしながら座席を立ち、将則はメガネくんの横のドアからそっと降りた。あの子はまだ降りないようだ。あの子の後ろを通り過ぎるとき、ほのかにシャンプーの香りがした。やっぱり、香水よりもシャンプーの残香のほうがいい。



 隣にいた香水リーマンの強烈なニオイが自分の半袖ワイシャツに付着したのではないかと気になり、将則は電車を降りてすぐに左肩のニオイを嗅(か)いだ。

「おい、ゴリ。なに腋(わき)のニオイなんて嗅いでんだよ」

 後ろから声をかけてきたのは、ラグビー部の三年生で、同じポジションの先輩だった。おそらく同じ電車の別の車両に乗っていたのだろう。

「あ、福田さん。おはようございまっす!」

 将則は歩きながら、振り向いて挨拶をした。

「おまえ、腋臭(わきが)なの?」

 福田は将則の隣に来た。二人の体格は同じくらいだ。

「いや、隣に座ってたリーマンの香水のニオイがハンパなくて、自分の腕というか肩にも付いちゃったんじゃないかなって思って……」

「それ、腋のニオイ嗅いでるようにしか見えねえぞ」

「怪しいっすか」

「かなり」

 福田と並んで駅の改札口へ向かう階段を上った。

 階段を上っている最中も、つい自分の左肩に鼻を近づけてしまう。これでは、腋臭のセルフチェッカーとして名を馳(は)せている化学の教師・国府田(こうだ)――通称〈ワッキー〉と同類になってしまいそうだ。

 だが、それも一興である。

 将則は鼻をくんくんさせながら、

「この動き、流行(はや)らせましょうか」

 と、いたずらっぽく言った。

「バカか、やめとけよ――」

 福田は苦笑いを浮かべる。

 いかにエグく一年生をいじめるかで自分の存在感を誇示しようとする上級生が多いラグビー部の中で、福田は一切そういうことをしない数少ない先輩だった。しかも、情報番組のコメンテーターも務めてしまうダンスボーカルグループの主要メンバーのように爽やかなイケメンだ。



 二年生になり、かつレギュラー候補の将則は、もう先輩たちにヤラれることはなくなったが、一年生のときにはかなりいじめられていた。睫毛(まつげ)を全て抜かれる。合宿のときに、立ったまま寝ろ、と言われて朝まで横にさせてもらえない。タオルで目隠(めかく)しをしたまま走らされ、いきなり首にラリアットのようなタックルをされる。これで弁当買ってこいよ、と一円玉を一枚だけ渡される。スマホに小便をかけられる。……細かい事例を挙げればキリがないが、単純な暴力はもちろんのこと、陰湿ないじめのオンパレードだった。特に、生きたセミやコオロギを何匹も食べさせられるのは本当にキツかった。昆虫大好き少年だった将則でも、さすがに生食はツラい。

 そんなときも福田は、「ゴリは俺の専属パシリだから、手え出すなよ」などと言って、陰険な先輩を遠ざけてくれることが多かった。実際、福田にパシリで使われるわけだが、他の先輩に囲われるよりはずっとマシだった。

 中学時代はイキがりにイキがっていたヤツらも、将則の通っている高校のラグビー部に入ると、いきなり強烈な上下関係の最下層に置かれることになる。中学時代に〝番長クラス〟だったヤツであってもそれは同じだ。人生で初めてヤラれる立場を味わって、それに耐えられず辞めてしまう同級生もいた。スポーツ推薦で入学した場合、部活を辞めたら学校も辞めなければならない。だから当然、耐えるヤツのほうが多いのだが、その分いじめはエスカレートする。

 それに耐えると〝理不尽〟に対する強力な免疫が培養され、〝鋼(はがね)のメンタル〟が手に入るのだが、あんな体験は二度としたくないし、思い出すだけでも不愉快だ、というのが将則の率直な感想だった。最強だった某大学のラグビー部が近年弱くなったのは、厳しい上下関係がなくなってメンタルが軟弱になったからだ、などと言う人もいるらしいが、実際のところはどうなのだろう。

 ただ、あのような環境下にいると、福田のような人間の強さと温かさが身に沁(し)みてよく分かるので、将則は「かくの如くありたい」という自分の理想像がイメージできるようになった。その理想像たる自分は、電車の中で目の合った相手に変顔を食らわせるようなことはしないはずなのだが、お調子者の将則には、その手のイタズラだけはどうしてもやめられない。



 改札口を出てからも、福田と二人並んで学校へ向かった。二年生になってしまえば、多くの場合、急に上下関係は消える。その分、新たな一年生がヤラれることになるわけだが――。

 駅前の商店街を少し歩いただけで、背中は汗でびしょ濡れだった。もうほとんど夏だな、と将則は思った。

 駅から学校までは普通に歩いて約二十分の距離だ。いつもなら十分ほど歩くと、激安の大型スーパーを通り過ぎたところの交差点で、自宅から自転車通学している同級生の植竹が合流して一緒になるのだが、今日は現れない。

「あれ、今日は植竹が来ないなぁ」

 将則は歩きながら、独(ひと)り言(ごと)のようにつぶやいた。

「ん? なんだ、ゴリ、植竹と約束してんの?」

 福田がなぜかわざとらしく訊(き)いてくる。

「い、いえ、そういうわけじゃ、ないんですけど……」

「待つか?」

「いやいや、べつにいいっすよ」

 将則は首を振ってそう言い、ニヤッとしながら続けた。

「たぶん、朝から一発オナニーでもして、遅刻気味なんすよ、きっとあいつ」

「おまえ、そんなこと言ったら、かわいそうだろ……」

 福田は少し眉を寄せて困ったような顔をしつつも、白い歯を見せて笑った。

 大型スーパーの前を通り過ぎると、静かな住宅街に入る。

 この時間帯に登校してくるのは朝練のある運動部員だけなので、通学路を歩いている高校生の数は少ない。

 住宅街に入ってから福田との会話は途絶えた。楽しく話せそうな共通の話題が思いつかなかった。

 何度か同じようなタイミングで汗を拭(ぬぐ)ったりしながら、二人とも黙々と歩いた。

 こんなに暑いのに、まだ鳴いてるセミがいないのが不思議っすよね……将則は、そんなことを言ってみようと思ったりもしたが、言い出しにくい空気だった。無言のまま歩く時間が続く。

 通学路の最後の曲がり角を曲がり、校門が見えてきたところで、前を向いたまま福田は口を開いた。

「おい、ゴリ」

「はい」

「今日も遠慮しなくていいんだぞ、ガチでこいよ」

「……はい」

 一週間ほど前の練習試合で将則は、福田から〝エイト〟のスタメンの座を奪ってしまった。エイト――ナンバーエイトは、ラグビーのフォワードにおける花型ポジションだ。だが、そのポジションを奪ってしまったことに負い目を感じ、先週の練習では福田に対して、ボールを持って本気で当たりにいったり、思い切りタックルをすることができなくなっていた。誰も助けてくれなかった一年生のときに、唯一自分を守ってくれようとした福田からスタメンの座を奪ってもいいのだろうか……その思いが将則の頭を離れなかった。

 そんな胸の内を見透かしたように、昨日の練習後、福田は「本気でやれよ、ボケっ!」と、将則の背中を叩いてきた。そして、今また念を押してきた。

――ひょっとしたら福田さんは、これを言うために、わざわざ今朝だけ俺と同じ電車に乗ってきたのかもしれないな。
――植竹が合流しなかったのも、もしかしたら福田さんに言われて……。

 将則はそう考えたが、あとでそれを植竹に問いただしたところで、福田から口止めされていたとすれば、本当のことを白状するはずがない。植竹も一年生の頃は、何度も他の先輩たちからのいじめを福田に救われてきて、福田のことを神のように崇(あが)めている。



 【祝・ラグビー部 柔道部 関東大会優勝】と印字された横断幕が張られた校門を二人でくぐった。グラウンド脇の部室へ向かって歩いていると、竹(たけ)箒(ぼうき)を持った清掃中のラグビー部の一年生たちが福田と将則の姿を見つけ、背筋をピンと伸ばしてから、おはようございますっ! とバカでかい声を出して次々と素早く腰を九十度に折り曲げた。

「おはようございますっ!」
「おはようございますっ!」
「おはようございますっ!」

 いくつかの「おはようございます」は重(かさ)なって微妙にハモられたりするが、福田と将則は、なるべくその一つひとつを受け取って、頷(うなず)いて応えた。

 ほとんどの二、三年生は、一年生から挨拶を受けても、目も合わせずに無視する。いちいち応えたりはしない。そういうものなのだ。二十人以上いる一年生部員の挨拶にすべて反応していたら、むしろ挨拶を受けているほうがペコペコと頭を下げているように見えてしまう。……ただし、挨拶してくるのが一年生女子マネージャーの場合だけは別だ。特に時岡――通称〈メロンちゃん〉が、舌足らずな口調で「おはよぅございまぁす」と子猫のような笑顔を添えて挨拶してくると、すべての上級生が例外なく「おう、おはよ」などと爽やかな先輩を演じて返事をする。もう一人の一年生女子マネージャー・君島――通称〈ジャイ子〉からの挨拶にも、メロンちゃんが近くにいる場合は一応、「ういっ」などと返す。

 しかし、福田は挨拶してくる相手が誰であっても、その相手の目を見て、頷いて反応する。だから将則もそれを真似(まね)していた。他にそんなことをする上級生がいないのがいい、と思っていた。


つづく(第4話へ)