第2話

 白い半袖ワイシャツ、紺色っぽい青のスカート。黒に近い紺色のソックスに革靴を履いた女子高生は、メガネくんのすぐ横――進行方向左側のドアから乗車して、メガネくんの目の前に立った。左手に茶色い通学用カバンを持ったまま、右手でつり革を握っている。

 清潔感があり、将則が小学生の頃に好きだった女の子と、どことなく雰囲気が似ている気がした。その子をすぐ正面から眺めることのできるメガネくんが羨ましい。

 将則はその子の後ろ姿を見ている。スカート丈(たけ)は膝よりも上なので少し短めかもしれないが、キチンと夏用の制服を着て、靴もカバンもおそらく学校指定の標準仕様。髪は肩にかからない程度の長さで、結んではいない。染髪している様子はないが、やや色素が薄いのか、光に照らされるとその髪は栗色に見える。

――この子、どこの高校だろう……。

 そう思いながら、その子のスカートから出ている白いふとももをじっと見つめた。思わずゴクリと唾を飲み込んでしまい、その喉(のど)の音が周囲の乗客に聞かれはしなかっただろうかと、将則は少し焦って、ごまかすように慌てて視線を上に動かす。今度は、その子の少しだけ汗に濡れた白いワイシャツから、白いブラジャーの線が透けて見えて、またゴクリとやってしまった。

 後ろ姿しか見えないのでハッキリとは分からなかったが、その子は窓の外の景色を眺めているようだった。通り過ぎていく景色を目で追うように、何度か少しだけ首を動かした。ただ、首を動かしたあと、すぐには元の位置に戻さず、しばらくしてからゆっくりと戻す。そんな動きを二、三度繰り返している。

 その子は電車内でスマホをいじらない希少な高校生だった。メガネくん・その子・将則と、電車内でスマホを手に持たないレアな高校生が縦に三人並んだ。

 将則は、なんとなく心地よくなった。隣の香水リーマンから発せられるニオイが少しだけ緩和されたような気がする。

 その女子高生の後ろ姿を眺めていると、ほんのり温かい気持ちになれた。明確な理由は自分でも分からないが、ただただ本能的にそういう気持ちになるのだ。きっと、その子が〝好みのタイプ〟だということなのだろう。……将則は、その温かい気持ちと状況を、五分ほど堪能することができた。

 しかし、次の深井(ふかい)セントラルパーク駅で乗車してきた四十代後半と思しきおばさんが将則の目の前に立ったせいで、〝スマホ持たずの高校生ライン〟は分断され、その女子高生の後ろ姿も見られなくなってしまった。隣の香水リーマンのニオイがよりひどく不快な悪臭に変わったような気がした。

 なんだよ邪魔(じゃま)なババアだな、と思ったが、そのおばさんに〈ジャマバア〉というあだ名をつけることで、なんとか気持ちを切り替えた。

 次の観察対象を絞り込むべく、将則は車内を見まわした。だが、混んできて視界が狭いうえに、スマホに夢中な乗客ばかりで、特に興味深いターゲットはロックオンできなかった。

 仕方ない。ジャマバアの観察でもして、サザエさん風のテーマソングでも作るか……将則はそう思って顔を上げ、再び目の前のジャマバアを見た。

 視界を邪魔されたせいで若干ムカついていたが、よく見るとジャマバアは柔和な顔つきの女性だった。いつも笑顔を絶やしていないからこそできたのであろう湾曲した深いほうれい線が、彼女の人のよさを物語っている。

 ジャマバアは、スマホをいじりながらも将則の顔の動きに気づいたのか、視線をチラッと向けてきた。

 目が合った。

 将則は反射的に首を右斜め四五度に曲げ、下あごを前に出して強調しつつ、目を大きく見開いた――アントニオ猪木の顔を作った。

 ジャマバアは固まった。

 ふと自分への視線を感じて、目の前の浅黒いスポーツマン風の高校生を見たら、いきなり猪木になってガン見(み)してくるのだ。朝からゴリラ系男子の全力猪木……この状況をすんなりと消化するのは、ジャマバアでなくとも難しいだろう。

 ジャマバアはしばしのフリーズ後、スマホに視線を戻した。

 そして、十秒ほど経ってから、ジャマバアは再度そっと目の前の座っている男子高校生を見た。何かの間違いだった、そう間違いよ……そういうことであって欲しい、という深い祈りを込めて、そっと。さりげなく。

 しかし、将則は容赦(ようしゃ)なく猪木であり続けた。目を合わせたまま、下あごをしゃくり出し、攣(つ)りそうになる頬を保ち続けた。そして、右斜め四五度だった首の角度を、ししおどしのようにカクッと左斜め四五度に切り替えた。首がポキッと鳴った。

 ジャマバアの目は見開かれ、かつ泳いだ。猪木に耐えかねた彼女は後ろを向き、メガネくんの横にあるドアのほうへ避難してしまった。

――イエスっ! やってやった!

 ホールインワンを決めたタイガー・ウッズのようなガッツポーズが出そうになった。

――くうぅぅ~~! やめらんねえ! たまらねえ!



 懸命な努力の結果、やっとこさ視界が開けたので、またあの子の後ろ姿が拝めると思ったら、すぐに将則の目の前には、別のおばさんが現れた。車内はおっさん率が高いのに、二打席連続ババアとは奇遇だ。

 今度のおばさんは、かなりハッキリとした茶髪だった。年齢はさっきのジャマバアと同じくらいだろうか。気が強そうで、しかも不機嫌そうだ。眉間に深いシワを寄せたままスマホを操作している。スマホを持つ左手の甲に、大きめのホクロが二つあった。片方のホクロからはぴょんと毛が生えている。

――ジャマバアが去って、今度は茶髪のババア……チャパバアか。

 急にさっきまで目の前にいたジャマバアが恋しくなってきた。あのやさしげな目つきに上品そうな佇(たたず)まい――歳は重ねていても女性らしい柔らかさが感じられた。猪木ではなく、加トちゃんくらいのレベルに抑えておくべきだったかもしれない。チャパバアよりもずっと、ジャマバアのほうがよかった。ジャマバアは邪魔じゃなかった。

 将則はそんなことを考えながら、新たな刺客――チャパバアの観察を始めた。

 ウォッチング開始直後、チャパバアと目が合った。

 不機嫌な福(ふく)笑(わら)いのような顔つきのチャパバアは、将則から目を逸(そ)らさずに、徐々に能面のような表情になる。

――こいつはアカン!

 介護中の姑(しゅうとめ)を虐待している嫁の目だ。ファミレスの厨房で、気に食わない客のビーフシチューに鼻くそを投入するアルバイトの目だ。アカン! アカンすぎる!

 将則は気圧(けお)された。猪木やティラノサウルスにはなれなかった。このタイプのババアに変顔を食らわせると、真顔で「なんですか?」などと言われかねない。その場合、返す言葉はないし、将則の立場は決定的にマズくなる。もっとも、そのリスクを冒してチャレンジすることにもそれなりの刺激はあるのだが、今日はやめておいたほうがよいと直感が告げている。

 将則は目を逸らした。

――負けたぜ、チャパバア。完敗だ。俺、真っ白になったよ。


つづく(第3話へ)