第1話

 同じ時刻、同じ車両、同じ座席。

 電車で通学や通勤をしていると、毎朝だいたい同じ人間の顔を見ることになる。言葉を交わしたことがなくとも、いつも見ている顔だと、知り合いのような気持ちになったりもする――。



 今朝も自宅から最寄り駅まで自転車で行き、いつものJR線に乗った。空(あ)いている座席はないが、冷房が気持ちいい。

 十五分ほど電車に揺られ、乗り換えのために絹田(きぬた)駅で降りた。ホームの階段を一段とばしで上り、改札口を出て少し歩くと、引いたはずの汗がじわりと全身を覆う。制服の長ズボンが汗でふとももに張りついて不快だ。

 私鉄の改札口を通って、右側にある階段を下り、ホームの中央付近に移動する。そして、絹田駅発の、いつもの電車の、いつもの車両の、いつもの乗車口前の先頭に並ぶ。

――あー、早く涼しい電車ん中に入りてぇ……。

 額(ひたい)に汗を浮かせたまま三分ほど待つと、電車のドアが開いた。木薮将則(きやぶ まさのり)は一番に乗り込み、入ってすぐ左の座席に座った。大きく広げた両足の間に、高校名と部活名の入ったエナメルバッグをドスンと落とすように置く。右にある手すりの横棒に肘(ひじ)をかけ、首を左右に振ってボキボキ鳴らしてから、気(け)だるそうに車内を見まわした。

 今日も将則の正面に座ったのは、真面目そうなメガネの男子高校生。座席に着くなり、膝の上に置いた緑色のリュックから単語帳のようなものを取り出して、貪(むさぼ)るように見入っている。このメガネくんは、よく見ると肌がキレイで端正な顔立ちをしているが、かなり痩(や)せていて生命力が低そうだ。おそらく一撃で倒せるだろう。

 メガネくんの右隣――将則から見て左側には、OL風の厚化粧の女。ベタ塗りされたファンデーションが重い。年齢的には、お姉さん以上おばさん未満ってところだ。高級そうな臙脂(えんじ)色の革製バッグからは、お局(つぼね)臭が漂(ただよ)っている。厚化粧OLは左手に小さな手鏡を持ち、アイラインと眉毛(まゆげ)の微調整に余念がない。ただ、先週、僅(わず)かに鼻毛が覗いている日があった。エロそうで、けっこういい女なのにもったいない。「鼻もケアーしたほうがいいですよ」と、メガネくんから伝えてくれないだろうか。

 厚化粧OLのさらに隣は、新聞を大きく広げて読んでいるおっさん。縁(ふち)の黄色い玩具(おもちゃ)みたいなメガネをかけ、こんなに暑いのに分厚いグレーのニット帽をかぶっている。

 将則の記憶では、このおっさんを見るのは今日が初めてだ。何者だろう。一応スーツを着てはいるが、どう見てもバリバリのビジネスマンではない。体中の毛穴から〝やる気のなさ〟が滲(にじ)み出ている。新聞おっぴろげオヤジの全開ワイドに広げすぎた新聞は、負(ふ)のオーラとともに両サイドの乗客のテリトリーに侵入していた。

「んっ、んん~っ!」

 厚化粧OLがわざとらしく咳払(せきばら)いをした。明らかに新聞オヤジに対する抗議だ。

 新聞オヤジは微動(びどう)だにしない。見事なまでに優れた鈍感力。厚化粧OLの敵意のこもった鋭い眼光が自分へ向けられているのに、新聞オヤジは「ふあぁぁぁ~」と余裕のあくびで受け流した。

「ちょっとぉ、新聞広げすぎなんですけどっ」

 厚化粧OLは甲高いアニメ声だった。これは意外だ。もっと鼻から抜けるようなねっとりした声を将則は想像していた。メガネくんも厚化粧OLをチラ見する。おそらく同じ感想を持ったのだろう。

「……ん? ああ」

 新聞オヤジはゆっくりと、本当にゆっくりと新聞を半分に折りたたんだ。なんというマイペースっぷりだ。誰とも目を合わせない。ひょっとしてこれが、窓際社員の余裕ってやつか。おそらく会社でも一日中、自分の席に座ったまま、インターネットを見ているだけなのだろう。労働法に守られ、大きな事件さえ起こさなければ、決してクビにはならないぶら下がリーマン。将則は、何を何度質問されても「それはねえ……教科書を読みなさい。ちゃんと書いてありますから」としか答えない世界史の教師・郡司(ぐんじ)――通称〈クサじい〉と新聞オヤジの雰囲気が似ていると思った。

 厚化粧OLはシベリアンハスキーのような目つきで新聞オヤジをしばらく睨(にら)んでから、再び手鏡で自分の顔をチェックし始めた。

 車内の座席はほぼ埋まっているのに、隣だけはまだ空(あ)いている。いつもこうだ。将則の隣の席は、たいてい出発前ギリギリの最後に埋まる。他人を警戒させる己の迫力を実感し、将則は少しだけ気持ちよくなった。〈ゴリ〉ってあだ名はだてじゃない。

 結局、隣に座ってきたのは、香水のニオイをぷんぷんさせた二十代前半と思(おぼ)しきサラリーマン風の男だった。男性用香水の強烈なニオイほど不快なものはない。

 将則は鼻がいい。鼻が利きすぎて、ワサビや生のタマネギが食べられないほどだ。小さく舌打ちをしてから「くせえな」と小声でつぶやき、隣を睨みつけた。が、香水リーマンはイヤホンをつけたまま、スマホのゲームに夢中だった。香水リーマンが女にモテそうな美男子なのも鼻もちならない。



 ドアが閉まって電車が動き出す。

 今日もすべての座席が埋まっている。車内の人間は、ほぼ全員スマホを見ていた。いつもどおりの光景だ。

 将則は通学電車内での人間観察が好きだった。

 毎日顔を合わせる乗客を見て、それぞれの年齢や性格、仕事や私生活を想像し、服装や髪型の推移から心境の変化などを推理する。いつもと同じ場所に座った状態で、落ち着いて観察することにより、小さな変化にも気づきやすくなるのだ。ヒューマンウォッチングは、スマホでツイッターやらインスタグラムやらフェイスブックやらに夢中になるよりも、ずっと楽しい時間の使い方だった。なぜそんなことが好きなのかは自分でも分からなかったが、とにかく楽しいのだから仕方がない。

 誰かと偶然目が合ってしまったときに、自分と相手のどちらがどのようなタイミングで先に目を逸(そ)らすのか、そしてその次はどのような表情とタイミングで再び目が合うのか、というようなことにも、なぜかゾクゾクするような刺激を感じた。

 目が合った相手の表情に微(かす)かな恐怖の色が浮かんだことを察知したりすると、将則はそのまま口を大きく開け、ティラノサウルスをイメージした変顔(へんがお)をキープして、相手を試すこともあった。実はメガネくんにも変顔を食らわせたことがある。メガネくんはそのとき、光の速さで目を逸らしたが、次の日も同じ座席――将則の正面に座ってきたので、意外と喜んでいたのかもしれない。

 俺は変わり者なのだろうか……そう思わなくもなかったが、世の中にはもっとハイレベルな変態がうようよしているはずなので、通学電車の中の将則は、いつも自分の嗜好と思考を素直に楽しんでいた。



 右斜(なな)め前を見ると、今日もあの老紳士はいた。

 モスグリーンのジャケットを着こなした後ろ姿とウェーブ気味の銀髪がシブい。おそらく年齢は六十を超えているだろう。彼は、座席が空いていても決して座らない。にこやかな表情をしているのに、小学校の校長先生のような落ち着いた威厳を持っている。

 以前、車内で急に痙攣(けいれん)し始めた女性を駅員に引き渡したときも、老紳士の状況判断と行動は見事だった。緊急停止ボタンを押そうとしたサラリーマン風の男に「ちょっと待った! ボタンは押さないでください。今それを押して救急隊を待つよりも、次の駅まで行ってから助けを呼んだほうがきっと早いはずです」と言って、老紳士は倒れた女性が気道を確保できる姿勢でそっと抱え上げた。その結果、駅員への引き渡しはスムーズに行うことができたのだ。あのときは、将則もダッシュで駅員を呼びに行くなどの手伝いをした。その際、老紳士からやさしい大人の眼差(まなざ)しで「どうもありがとう。君は機転が利く青年だね」という言葉をかけられたことが妙に嬉しかった。なぜか将則の心の中の深いところに、その言葉がいつまでも心地よく残っている。あの老紳士とは目が合っても、決してティラノサウルスの変顔なんかはできない。

 気になるJKが乗ってきたのは、絹田駅の次の馬頭敷(めずしき)駅だった。


つづく(第2話へ)